
「忍耐強くあれ」
ヤコブの手紙 5:7-12
説教者:トニー・ノフエンテ牧師 神戸ユニオン教会 2025年2月9日
クリスチャンの人生はレースのようなものです。キリストを信仰する者の多くはゴールに到達しません。人生の途中で何かが起こり、コースからそれてしまいます。
ヤコブの手紙では本物の信仰者がどういうものか、信仰者として生き抜くとはどういうことかについて書かれています。
今日の説教は、本物の信仰者になるためにはどうすればよいかについて話します。基本的にはどのような状況にあっても忍耐と一貫性が求められます。私たちは何が起ころうとも忍耐強く、一貫した信念を持つべきです。
「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」(ヤコブ5:7-12)。
一貫した信念を持つとはどういうことか
①忍耐と希望
一貫して不動であるためにはまず忍耐と希望が必要です。ヤコブの手紙に農夫の例えがあり、嬉しく思います。というのは私自身、農家の父のもとで育ったからです。作物を育てるには時間がかかります。一日二日では作物は何も育っていないように見えます。待つ忍耐が必要です。
労働の成果が出るまで時間がかかるのは、神がそうされたからです。神は自然を通して、喜びは後からやって来るという原則を教えておられます。
現在の社会では、待つことなくすぐに結果をほしがります。しかし神は結果がすぐ出るようには、なさいませんでした。
・モーセはイスラエルを救おうとしてから荒野で40年間待たなければなりませんでした。
・ヨシュアと彼の兵は、主を待ち望んでエリコの城壁の周りを13周歩かなければなりませんでした。
・ダビデは油を注がれてから王になるまで約15年待たなければなりませんでした。
神はご自分の民に忍耐と神に頼ることの大切さを教えるために、「待つ時間」を用いられました。
私たちは神を信じ、福音を信じ、永遠の命と天国を信じています。私たちのすべての罪は赦され、完璧で栄光に満ちた肉体を授けられ、二度と罪に陥らないと信じています。
しかしこういった神の約束が成就されるのはまだ先の話です。神を信じれば即座に神の約束が成就されるとは言っておられません。
そして私たちには忍耐だけでなく、希望も必要です。農夫は豊作を願い、辛抱強く待ちます。私たちは神の約束に希望を置きます。
パウロはⅠテモテ6:5の中で、「信心を利得の道と考える者」について述べています。こういった人たちは、神を信じればすぐに金銭や健康や成功を神が授けてくださると考えています。
そういう人は実際に存在しています。イエスを信じれば見返りとして、美しい女性と結婚して国を脱出して別の国に住めるようになると考えている人の話を読んだことがあります。こういう考え方を持つ人はいずれ失望することになります。即座に得られる喜びを求めているからです。
パウロは次の節でこう書いています。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」(Ⅰテモテ6:6-7)。
この世で得るものもあります。キリストを信じると、私たちの人生、目的、態度はすべて違うものになります。私たちはすでにたくさんの祝福を経験していますが、祝福のすべてではありません。すべての約束を受け取るには忍耐が必要です。
忍耐するのは2千年前でも難しいことでしたが、現代ではもっと難しくなっています。ミレニアム世代(1981年~1996年生まれのデジタル世代)の集中力の平均的な持続時間は15秒だそうです。また多くの人は、ウエブサイトの読み込みに5秒以上かかると待ちきれずに別のサイトに移動してしまいます。
神は私たちにレースのコースから外れず、完走してほしいと願っておられます。そうするためにヤコブは私たちに、忍耐し、神の約束に希望を持つよう教えています。不動である人は、喜んで神を待つはずです。
私たち一人ひとりはそれぞれ異なる問題に直面しています。そして皆それぞれに神と神の約束に対してしびれを切らして我慢できなくなりかけたことがあるのではないでしょうか。
・慢性的な痛みや病状に苦しんでいる人がいるかもしれません。忍耐強くあれ。私は10月19日から帯状疱疹の症状に悩まされています。神は少しずつ治してくださっていますが、いつか完全に癒してくださり、足をひきずることなく歩けるようになると信じています。
・結婚や人間関係の問題に悩んでいる人がいるかもしれません。忍耐強くあれ。いつの日か「小羊の婚宴」(黙19:9)の座に着けることでしょう。
・何かについて祈り続け、その答えを待っている人がいるかもしれません。忍耐強くあれ。神は、待っているあなたに何かを学ばせようと望んでおられるかもしれません。
兄弟姉妹のみなさん、忍耐がないと道をはずれてしまうことになります。
・アブラハムとサラは神の約束の息子を待つ忍耐がなかったために罪に陥りました。
・モーセが40日間山にいた時、イスラエルの民は我慢できず、イスラエルの神から離れて自分たちで神を造りました。
不動でいるとは、喜んで神を待つ意志があるということです。忍耐を失うと、世俗の迷いから信仰の道を逸脱することになりかねません。
② 自己に集中する
ヤコブ5:9が教えているように、不動でいるためにもう一つ大事なことは自分自身に集中することです。自分を優先させるような利己的な意味ではありません。レースの最中に他の人たちに気を散らすのは得策ではありません。
さて、ユースのみなさんの中には学校でスポーツをしている人もいます。
・審判の判定に文句を言うのはあなたやチームにとってためになりますか。
・プレーを中断させ相手チームの選手にファウルだと怒鳴るのがチームのためになりますか。
・チームメイトのミスに怒ったり悪態をついたりするのはあなたやチームのためになりますか。
これらのネガティブな行為はあなたの集中力をそぐことになり、相手チームに有利になります。私たちは自分自身と自分のやるべきことに集中しなくてはなりません。
ベストを尽くしましょう。やるべきことをやり、それ以外のことは気にしないでおきましょう。
ヤコブは「裁く方が戸口に立っておられます」と言っています。どういう意味でしょうか。まず私たちは決して裁く人の立場ではありません。裁判官は神です。私たちは皆、いずれ神の前で釈明をしなければなりません。私たちは他の誰でもなく、裁く方との関係に注意を向けなければなりません。私たちは私たちのやるべきことを為し、神は神の仕事をされます。
ここにおられるみなさん、みなさんは不平や不満を口にしたり、他人と比べて嫉妬したりすることはありませんよね。どうですか。しかし実際は、キリストの弟子たちやパウロでさえ、そういうことをしていました。私たちも同じですね。
聖書によると、弟子ヨハネが再臨まで生きている、とイエスがヨハネに約束されたと、ペテロや他の弟子たちは考えていました。ヨハネ21:21-22にはこうあります。「ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。 イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい』」。
弟子たちはヨハネのことで気をもんでいたせいで、自分たちのすべきことが疎かになりました。不動であるためには自分が為すべきことに集中するべきです。他のことに気を取られてはいけません。
次のような事柄に時間を費やさぬよう気をつけましょう。
・自分より「劣っている」人の昇進に不満や疑問を持つ。
・自分より能力のない人が仕事で抜擢されたり賞賛を受けたりすると不満や疑問を持つ。
・他の人たちが割り当てられた仕事をしていないと言って文句を言う。
これらは、神があなたに求めておられることへの集中を妨げるものです。私たちは神が望んでおられることに応答しなければなりません。神に集中し、他の人の事で注意を逸らさないようにしましょう。
③信頼のおける言葉(ヤコブ5:12)
ヤコブは12節で、真の信仰者は日々の生活の中で信仰を生きていると明確に言っています。そのうちの一つが言葉です。信仰を持つ人の語る言葉は、世間の人と違うものでなくてはなりません。というのも一貫性のある信仰者は、自分の口から出る言葉に注意を払う必要があるからです。
ヤコブは、イエスが誓いについて戒めているマタイ5:37を引用しています。しかし誓いを立てることは詩編76:12に記されており、旧約聖書でまったく禁じられているわけではありません。それでも誓いは厳粛で神聖なものとみなされ、特別な場合にのみ用いられると考えられていました。
しかしイエスの時代でさえ、人々は抜け穴を見つけて誓いを利用しようとしました。たとえば天にかけて誓う人は、神の御名を使っていないので誓いを破ることができました。他にも神殿の黄金や神の御座にかけて誓うと、拘束力を持たないという不文律もありました。当時の人々はそうやって誓いの拘束から逃れる手段を使っていました。同じように現在でも約束をするときに、指をクロスさせたりしますね。もっと悪いのは、教会の献金の毎週の金額を誓約しておきながら、神は理解してくださると言って献金を怠ることです。
このようなことからイエスもヤコブもこの類の誓いを禁じています。イエスは、創造主である神は常に私たちと共におられると人々に話されました。神はあなたが口にする言葉を聞き、あなたの心をも見ておられます。ずる賢い言葉のゲームは、うそをつく言い訳にはなりません。
しかし今の世の中では、日常的な会話の中で誓いがよく使われています。例えば「母の墓にかけて、真実を話していると誓うよ」と言って嘘をつくのです。
そもそも普段から正直な人であれば、自分を信用してもらうためにわざわざ誓いなど立てなくてもよいはずです。自分の話を相手に納得させるために誓いを立てるのが必要なら、人はあなたを信用しなくなります。
一貫性のある信仰者は、明確に、そして正直に話をしなければなりません。イエスと言えば絶対にイエスであり、ノーと言えばあくまでもノーなのです。それはつまり以下のようなことです。
・自分の言うことが本当であると、わざわざ人に説得しなくても信じてもらえるように、常に誠実な人間でいる。
・約束をする前に考える。ヤコブ4:15に「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」とあるように、主の御心に従う。
・子の親である人は子どもとの約束を守る。子どものために何かしてあげると言ったら必ず実行する。
・誓いを立てるのは、結婚式などの非常に重要な場面に限る。その場合も、誓いの言葉は率直でわかりやすいものにする。
祈りましょう。
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