今日は受難週の始まりです。「ホサナ」と「主の名で来る者は祝福される」というキリスト信者の言葉から、来週は「キリストがよみがえった!本当によみがえった」という宣言へと移っていきます。しかしその移行期間の本質を見逃していませんか。それは、オレオクッキーの中身を味わわずにクッキーだけを食べるようなものです。こうなると、主イエスが神様の御名において貧しい人々を搾取する者たちを神殿から追い出し、「わたしの家は祈りの家でなければならない」と力説した真意を見落としてしまいます。主イエスは、教会は説教や音楽の家であるとは言いませんでした。むしろ、祈りによる神様との関係を基礎にして建てられた家であるべきだと言います。あなたの祈りの生活はどうですか。本当に、どうですか。私達がただ日曜礼拝に来ることだけこなしていると、主イエスの裏切り、ペテロの主イエスの否定、主イエスの教えの重要な部分を見逃してしまいます。最後の晩餐、主イエスが聖餐式を命じ、弟子たちの足を洗うという彼の謙遜な行為の真意を見落としてしまいます。最も重要なことは、十字架の意義を見落としてしまいます。十字架の真意を見落とすことは、キリスト教の本質が分からず、信仰の本質を見落とすことを意味します。 世界が王の王を殺したとき、私達は単に現状維持を望む群衆の中に自分の自らの声があることを認めざるを得ないのです。私達はメシアを切望するが、私達の欲する条件下で望んでいるのです。今週をあわただしく過ごさないでください。金曜日に、一人一人のために犠牲を奉げられたことに私達は深く思いを寄せ、それに焦点を当てた厳かな礼拝を行います。礼拝の中で、十字架で主イエスが残した最後の言葉について深く味わってみます。この週は「聖なる」という称号を持つ理由があり、それはすべてのキリスト教徒にとって大きな重要性を持っています。 主イエスのエルサレムへの最後の旅を、しばしば凱旋入城と呼びます。そこには明らかな熱狂があったでしょう。去年、プロ野球日本シリーズの開催中に、私は電車の中で阪神タイガースとオリックス・バファローズの熱狂的なファンに出くわしました。両チームが日本シリーズの勝敗を競い合って、そのファンの熱気と興奮を車内で感じとることができました。エルサレムも同じ熱気が満ちていたのか、さらにもっと白熱していたかもしれませんね。主イエスは、つい最近ラザロを死者の中からよみがえらせたばかりで、この若いラビがこれから何をするのか高まった期待の中でエルサレムに入場していくのです。 キリスト教ではこの日を「棕櫚の日曜日」または「凱旋入城:エルサレム入城の日」と呼ぶのは興味深いのです。つまり凱旋入城は、ローマ文化から来ています。そこでは、将軍が大勝利を収めると、ローマ中をパレードし、彼は神(小文字god)だと宣言します。しかし、主イエスはまだ最大の勝利を収めていません(それは金曜日に起こります)が、主イエスは自分が父と一体であることを宣言するパレードは必要ありません。彼は実にそのままが事実で、私と父は一つであること、そのことにより父が十字架上で御心を成され、私達は勝利を得たのです。 エルサレムへの途中で、主イエスは2人の弟子に、近くの村に子ロバを見つけるよう指示します。そのロバは誰も乗ったことがないにもかかわらず、主イエスのところに連れて行かれました。ゼカリヤ9:9には、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなくろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」と書かれています。 3歳未満のロバに乗るのは危険とされているので、このロバが3歳ほどであることが分かっています。想像してみてください、主イエスが地上での宣教を始めたとき、3年前にこのロバはこの日のために生まれてきたのです。そのように神様は備えてくださいました。主イエスが神殿税を支払う必要があったとき、ペテロを釣りに行かせ、魚の口から2枚の銀貨を引き出しました(主イエスは神殿税を支払っており、神殿は彼の父の家でした)。私が義理の両親の家で食事をして帰るとき、その料理の請求書を受け取るみたいです。 一度も乗ったことのないこのロバは、主イエスのもとに連れて行かれることになっていました。弟子たちは許可を求めるべきではなく、なぜ自分のものでもないロバを連れて行くのかと聞かれたら、「主がお入り用なのです。」と答えなさいと言われました。これは王者が話す言葉であり、主イエスが完全に主であるという本質を具体化したものです。その時代の王や主は、単に「主がお入り用なのです。」と言うことで誰にでも接近し、彼らの財産を取り上げることができました。言われた人はそれを彼らに差し上げなければなりません。通常、王の家来は王の命を受けた身なりの人で、漁師のような身なりではありません。 私は今日のお祝いのためにシュロの枝を入手することをテッドと話し合いました。彼は店でたくさんのシュロの枝を探しましたが、見つけるのに困難を要しました(テッドに感謝)。数週間前にテッドの家を訪れ、実にテッドの近所にシュロの木があるのを見つけたのです。私はテッドに、あのシュロの枝がいるよね、と言ったら、テッドは近所のフェンスを越えてそれらを切り取りました。彼は私が伝えたとおりにしたのです。所有者に何をしているのか尋ねられた場合は、「マークがお入り用なのです。」と言うように言いました。これは、所有者との会話の後のテッドの姿の写真です。正直を言うと、この話の半分だけが本当です。 しかし、100%真実なのは、神様が用意してくださるということです。 ロバについて言うと、 ほとんどの新品は中古品よりも価値があります。セカンドストリート店に行けば、ほとんど新品の服が50%から70%引きで買えます。ロバや馬は違います。オークションでは、調教されていない馬よりも、調教された乗れる馬の方がはるかに価値があります。主イエスは一日このロバに乗り調教し、元のロバよりも価値のあるロバとして返しました。 ここには霊的な真理があります。私達が神様に何かを奉げるとき、私達の時間、才能、または資源、神様はそれらの贈り物をより大きな価値で返してくださいます。主イエスはこの特定のロバを必要としていましたが、全体的に見て、神様には何も必要ありません。神様は私を必要としませんし、あなたも必要とされません。神様は自身で充足しています。しかし、神様は私達との人格的関係に、私達と一緒にいることに喜びを見出しておられます。随分前に神様は、涼しい夕方にアダムとエバと一緒に歩いたように、私達と一緒に歩むことを欲しておられるのです。「神様は私を必要としている」と言うのは真実ではないでしょう。むしろ、「神様はあなたを求めている。」と言うべきです。主はあなたを欲しており、あなたの罪を主の血で買い戻すために主自身を犠牲にしました。(イザヤ53:5)「彼は私達の背きのために刺し貫かれ私達の過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって私達に平安が与えられ彼が受けた打ち傷によって私達は癒やされた。」 私達が召命を受けたとき、応答の仕方をビデオでお見せしましょう! 主イエスのエルサレム入城と、サムエル記下6章に登場するダビデ王の契約の箱を運ぶエルサレム入城の行列の相似は注目を惹きます。ダビデ王の高揚した神様への賛美は、王の品格に欠けると批判されながらも、神様の臨在に対する彼の喜びの大きさを明らかに表したのです。人生は挑戦に満ちています、だから誰もあなたの喜びを奪うことのないように。主イエスは私達に、明日の問題に心を奪われず、今日の問題に十分注意を払うようにと諭しています。だからこそ、私達は喜びの瞬間を受け入れることが大切なのです。 主イエスは弟子たちに使命を与え、一度も乗られたことのないロバを紐から解くように命じました。簡単な宣言で、「主がお入り用なのです。」と言うのです。私達はみんな何かに縛られています。健康的で良い縛りもあります。私が神様との関係、家族の世話、私の召命への忠誠心など、良いものに自分を縛っているときは、それらが滑り落ちないよう二重結びにします。しかし、この世のプライド、イメージ、余分なものに縛られるとき、私は神様にこれらのものを解いて、神様に奉げる力を与えてもらうように祈ります。知っていますか。聞いたことがありますか。私達はキリストの信者であり、従者として、縛るだけでなく解く権威と力と特権を神様の御旨に従っている限り、地上だけでなく、天でも与えられているのです(マタイ16:19)。 心から全きに神様を賛美すると、抵抗に遭うでしょう。ダビデ王は、熱狂的な賛美のために妻のミカルからの批判に直面しましたが、これは棕櫚の日曜日の主イエス信者を黙らせようとしたパリサイ派の人々と同じです。主イエスは、礼拝を黙らせようとする彼らの努力を叱責し、黙れと言ったとしても、被造物そのものが自発的に賛美を始めるので、それは何の役にも立たないと示唆しています。主イエスによれば、人々が黙っていれば、石が神様を賛美し始めると言います。私は石、無生物が話すとは思いません。もしかしたら私が間違っているかもしれません。私は、ロバが話せるとは信じませんでしたが、旧約聖書(民数記22:28)には話すロバがいます。主イエスが話している石は、エルサレムへの道に並ぶ墓石だと思います。各墓石には一節または聖句が書かれていました。主イエスは、これらの墓石が、主イエスが何者かを語ると言っているのです。墓石に書かれた言葉は、エルサレムに入城する主イエスにおいて、今まさに成就されようとしている神様の忠実さを語っているだけでなく、最悪の事態でも、眠りについた忠実な人々がよみがえり、主イエスが誰であるかを証言すると言います。死者は知っているからです!それが、金曜日に神殿の聖と俗を隔てる幕が裂かれたとき、人の手によって下から上へ裂かれたのではなく、神様が上から下へと裂かれた理由の一つでもあります。主イエスの復活の後で死者が都に入り歩きました(マタイ27:52)。もし私達が主を祝う義務と喜びを忘れても、死者は忘れていません。 民が熱狂的な喜びで主イエスを祝福する中、主イエスはエルサレムの町を見て泣かれたのです。ロバは自分の仕事が何であるかを知っており、主を背中に座らせてそれを果たしましたが、ダビデの都、神様の民は、自分たちの王を迎える準備をするという目的さえ忘れ、わずか3日で主イエスに背を向けました。そのため、主イエスは彼らの不従順の結果を見て、母鶏が雛を集めて守るように、彼らを集めたいと切望されましたが、民は別を選択したのです。彼らはバラバを選び望んだのです。願わくば、主イエスが再び来られるとき、私達はそうならないようにしたいものです。もう一度言いますが、主は私を必要としません。しかし、私を求めておられます。 祈りましょう。
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