メッセージ:
高校時代、いつも大それたことばかりを言う近所の友達がいました。時々そういった人がいると思うのですが、例えば、「こんなに大きな魚を釣ったんだ」とか、「こんなに自分は高く跳べるんだ」とか、自慢するような人です。ある日、彼が私たちの方に近づいてきて、学校一可愛い女の子とデートをしたと言いました。それを聞いた瞬間、みんな彼がウソをついているか、冗談を言っていると思って気にしませんでした。そして、彼に、「彼女が君とデートするわけがないよ」と私たちは言ったのですが、グループの中で彼女と仲の良かった女の子が、彼女自身が彼を映画に誘っていたことを確認したのです。信じられなかったのですが、彼が言っていた事は本当でした。学校一可愛い女の子が彼の様な人をデートに誘った事実は忘れることが出来ないものになりました。 本日は、私の友人がデートに誘われたことよりも、さらに信じられないことを話していきましょう。聖金曜日にイエスが残酷に殺され、むち打たれ、手足に釘を打ち込まれたことを理解していますね。そして、十字架にかかって亡くなった後、彼のわきに槍が突き刺さりました。 約20年前、私はメル・ギブソンの映画「The Passion of the Christ(邦題:パッション)」を観ました。映画ファンは、十字架にかけられるシーンが見るに堪えられないと不満を述べるほど残酷だったのです。そんな映像を見ながらスナックを食べる人が少なかったので、映画館はポップコーンやお菓子の売り上げが低迷しました。イエスの身体が激しく傷つけられ、私たちの主が耐えた暴力のレベルが描かれていたのです。 復活祭の説教で少し触れたマグダラのマリアが最初はイエスを認識できなかった理由を、疑問に思う方も多いですが、その理由の1つは彼に加えられた暴力だったのかもしれません。 イザヤ書53:5には、こう書かれています。「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」 アーメン。 トマスはイエスに何が起こったかを理解しており、このような残虐行為からは戻ってこないことを知っていました。だから、十人の弟子たちがイエスが生きていると主張したとき、「こんなに大きな魚を捕まえた」とか、普通の男の子が可愛い女の子とデートしたといった話以上の驚きだったでしょう。単に「不可能かもしれない」というものではなく、「不可能」だったのです。 トマスは、弟子たちが彼をからかっているのではないかと思ったかもしれません。もし、そうだったなら、弟子たちが、主であり、教師であり、友人であるイエスが亡くなったことを知っているのに、イエスが歩いていたと主張するのは悪趣味の極みを超えています。あるいは、トマスは弟子たちが深い悲しみに打ちひしがれる中、集団的に感情が崩壊してしまったと思ったのかもしれません。ただ、どんな状態であったとしても、決してだまされないとトマスは思っていたのです。 トマスが「フェイクニュース」だと思っている、その出来事について聞いた後、トマスを有名にした言葉を口にします。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入いれ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」 1週間後、再び11人の弟子が集い、ドアにカギをかけています。なぜ11人の男性たちがカギをかけた部屋に閉じこもっていたのでしょうか?それは、ローマ人、ユダヤ人の指導者、世界に対しての恐れがあったからです。11人のうちの10人は1週間前に見た光景に疑いを持ち始めていたかもしれません。恐れることは悪い事ではありませんが、恐れに支配されるよはよくありません。神に対する信仰以上に恐れが大きくなることがいけないです。 以前にもお伝えしましたが、リウさん及びKUCの牧師を探すサーチ・コミティーが私にサポート・パスター(副牧師)になってみないかと話しを初めて持ってきた時に、私は不安を感じました。何を恐れ、不安に思ったかというのは、ここでは挙げませんが、主がイザヤ書41:10を私に伝えてきているのが分かりました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」 同じ箇所を共に英語で読んでみましょう。Do not be afraid, for I am with you; do not be dismayed, for I am your God. I will strengthen you and help you; I will uphold you with my righteous right hand." イスラエル人が戦の間、モーセが神を讃美するために手を上げると、イスラエル人は負けることがあなかったというのをイザヤは知っているのです。しかし、戦いが長引き、モーセが腕を上げる力が弱まり、その手が下がると、イスラエル人は戦いに負けました。そのため、モーセの腕を持ち上げるための男たちが必要でした(出エジプト記17)。 戦の間に手を持ち上げるのを助けてくれる兄弟姉妹がいることは神を賛美し続ける上で助けになります。忘れないでください。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである(エペソ人への手紙 6:12)。さらに、腕を支えてくれる兄弟姉妹がいない場合も、神さま自身が神の御手を挙げてくださるとイザヤ書41に書かれています。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか? 弟子たちは部屋にこもり、窓を閉め、扉を閉め、地上の煉獄のような状態でした。皆さんの中に一度でも男性11名と密室で過ごしたことがある人がいるか分かりませんが、あまり良い匂いがしなかったかもしれませんね。そして突然、イエスが彼らの真ん中に現れ、「Shalom be with you (平安があなたたちと共にありますように)」と彼らに挨拶をしたのです。 もしあなたが今、何かを不安に思っていたり、恐れているならば、神の平安を祈ってください。大切なので、再度言います。不安や恐れがあるのであれば、神の平安を祈ってください。神の平安がありますように。
イエスは、ほかの10人の弟子たちと一緒にトマスのもとに行きます。イエスはトマスを見下したりするのではなく、事実を伝えるために、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。相手を非難するのではなく、事実を伝えたのです。私が十字架にかけられたのを見ましたよね。私はあなたがたの罪のために代償を払いました。世界が神の子を殺し、神が死から蘇らせた世界の事実を見ています。 イエスは私たちに思考力を切り捨てるようには言っていません。私たちに感情を切り離すようにも言っていません。私たちのほとんどは、自分の思考力や感情で世界を見ます。信仰は私たちの理論的な考えを否定するものではありませんが、理論的な理解を超えた世界があるのも信仰なのです。それが、父なる神への信仰なのです。 トマスには見えていました。トマスは主の痛みを感じることが出来ました。トマスはその物理的な傷を見たのです。それが私たちが父なる神を信じる信仰です。 トマスは見ることができました。トマスは主の傷を感じることができました。トマスは、実際の傷を目にしたのです。 イエスはトマスと、歴代の他のすべてのトマスたちに向かって、「見ずに信じるものは幸いである」と言います。この言葉はトマスだけでなく、信仰を持って人生を歩む私たち全員にとって言っているのです。信仰だけに頼らざる追えない時、物理的な傷や証拠を見る事ができない場合もあるでしょう。それも全てイエスは分かっています。 見えないものを信じるのが信仰の本質です。その信仰心がイエスをただ従う者(フォロワー)と真の弟子を区別するものです。信仰とは、希望することの確信であり、見ていないものへの確信です。状況が暗中にあるように思えても、神の約束を信じ、まわりのすべてが絶望的であるときでも希望を持ち続けることなのです。 では、どのようにして信仰を育てるのでしょうか?見えないものを信じるにはどうすれば良いのでしょうか?それは、復活したキリストとの個人的な出会いから始まります。イエスを私たちの心に入れ、彼の愛と恵みを経験すると、私たちの信仰は単なる教義や信念を合わせたもの以上になります。生きた神と自分とが、呼吸を重ねているような関係性になるのです。 マルコによる福音書8:27-29では、イエスが「あなたがたは、私を誰だと言うか?」と弟子たちに尋ねた時、彼らは「ある人はあなたが教師だと言い、また、ある人はあなたが預言者だと言い、また、別も人たちは、イエスは蘇った洗礼者ヨハネだと言います。」と答えました。しかし、イエスは言います。「あなたは私を誰だと言うか?」。すると、ペトロは「あなたはキリストです!」「あなたは救世主です!」。そして、ここでもトマスが一歩上をいき、「私の主よ!私の神よ!」と言いました。 メシアのような、単なる神の道具ではなく、イエス、あなたは父と共にあります。あなただけが崇めるに値する。あなただけが従うべき存在です。あなたは始まりであり終わりであり、アルファでありオメガであり、最初であり最後である。イエスよ、あなたは神です。 ここがトマスが神を感じ発言している部分です。 イザヤ書6章の有名な箇所、トマスが神の王国に引き上げられ、こう言いました。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚がれたくちびるの者で、汚がれたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。トマスが神と対面した時に口にした言葉です。これがトマスが見たイエスなのです。 祈りましょう。
0 Comments
Leave a Reply. |
日本語の説教日本語の説教原稿はこちらにあります. Archives
May 2024
Categories |