もし80年代に育ったなら、このフレーズを覚えているでしょう。「親切心を持って、巻き戻してください。」今では時代遅れになってしまい、20代の人々、たぶん30代の人々には知らない人もいるかもしれませんが、すべてのビデオレンタル店に、この標語が掲示されていたことがありました。
もちろん、レンタルして視聴したビデオを巻き戻す必要はありませんでした。巻き戻したらお金を返してもらったり、しなかった場合に追加料金を支払ったりする必要はありませんでしたが、ビデオショップは、「親切心を持って、巻き戻してください」という標語で、人が持つ優しい心に訴えかけようとしました。 以前、この標語に関する研究結果を見る機会がありました。その研究では、標語が見やすい場所に掲示されていると、レンタルビデオを返却する際に巻き戻す人々が、標語を掲示していない店に比べて20%多いことがわかりました。 世の中には、一定数厄介な人たちがいます。電車の優先座席に座って、年配の人が乗ってきたときに眠っているふりをする人々がいます。こういった人たちが厄介者だという事は、皆さんも同じように感じていらっしゃると思います。 しかし、ほとんどの人々は、70%、80%、90%、あるいはそれ以上であるかどうかはわかりませんが、他人に対して優しくありたいと思っています。ただ、常に、親切な心を持つことを思い出してもらう必要があります。今日、ここで皆さまへのリマインダーとしてお伝えします。「皆さん、親切心・優しい心を持ってお互い接しましょう。」 Amazonがガラス入りの商品やその他の壊れやすい商品を配送するとき、「取り扱い注意」と明記して、配送します。人間同士も同じです。たまに明記されていることを忘れてしまうのですが、私たち自身も壊れやすいので、お互いに思いやりをもって接してください。 親切は、霊の結ぶ実の一部です。それは神を形作る一部です。私たちは神を威厳的で力強いと思っていますが、神の慈悲と親切な心を忘れてはいけません。そうでないと、神を怒りの支配者と見誤ってしまいます。詩篇23篇には、こう書かれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ…」神は愛と善良だけでなく、親切の精神を体現しているのです。 一部の人々は優しさを弱さと見なしています。特に若い男性は、弱いと見られることを恐れ、優しくなることを避けますが、宇宙にはヤハウェよりも偉大な力はありません。それでも、ヤハウェは親切で優しいのです。親切心とは相手のことを心の底から考えてあげることです。ケーキそのものではなく、ケーキのアイシング(ケーキを彩るクリームや飾り)が、ケーキを美しく際立たせるのです。 相手のことを心から思ってあげることは、愛、喜び、平和、忍耐、善良のように聖書で明確に言及されているわけではありませんが、どんな人間社会においても、相手を思って行動することは、全ての基本となります。親切でない人々と一緒に暮らし、交流し、働き、教会に行くことは、とても辛いです。 かつて私は横浜の学校で働いたことがありましたが、そこの教師たちはお互いに対し、親切ではありませんでした。彼らは賢くて働き者であり、生徒を大事にしていたと思いますが、お互いに親切心を持って接することをしませんでした。職務内容にそういった明記がなかったのかもしれませんが、入れておくべきだと思ったほどです。誰の人生の、どんなステージにあっても、「お互い親切心を持って接する」ということは、覚えておくべきです。その学校は給料がよかったのですが、そこで働くのは辛かったので、1年間勤めて辞めました。 ある無人島で遭難した男性の話があります。数年後、通りかかった船が彼を見つけ、救助しました。船が岸に到着すると、男は言いました。「来てくれてありがとうございます。」そして尋ねました。「何年間もコーラを飲みたいのですが、コーラはありますか?」コーラを手にした後、救助者は浜辺に3つの建物を見つけ、男に尋ねました。すると男は「最初の場所は私の家です。」彼らは「いいですね。」と答えました。そして彼は2番目の建物について聞きました。すると、男は「こちらは私が神を礼拝する場所です。」彼らは「いいですね。」と返しました。最後に、3つ目の建物について聞いた時に、男は、「その場所について話したくないですが、以前通っていた教会です。一度も親切にされたことはありませんでした。」 これは冗談ですが、教会を去っていく人々は常にいます。別の教会を見つけて、そちらに行ってしまう人がいる一方で、多くの人は、単純に教会に行かなくなります。教会から人が去ってしまう理由は様々です。説教者が気に入らない、音楽が気に入らない、しかし多くの人は、親切にされないがために、自分がその教会に属している感覚が薄く、そのまま去ってしまうのです。これは牧師の責任ではなく、それは会衆の問題です。 YouTubeで効率的に企業を改善させるコンサルタントを見ていました。彼は有名な企業や組織と協力して、仕事を効果化したり、短時間でより多くのことを成し遂げるようにしたりしています。簡単に言えば、もっと多くのことを成し遂げることができれば、もっと多くのお金を稼ぐことができます。(それが私たちの目標ではないですが、効率化を図ることは悪いことではありません。)そのコンサルタントは組織をより効果的にするためのさまざまなアイデアを持っていますが、私が驚いたのは、お互いに親切で肯定的であることについて話したときでした。「人を叱咤し、人を動かすことはできます」と彼は言いました。私の場合だと、学生に勉強を促すために、一時的には叱ることが出来ますが、(学生もその叱りに慣れてくるので)その声がどんどん大きくなり、最終的にはもう叫ぶことが出来なくなります。そのコンサルタントは、「長期的には、叱り・怒りは通用しません。とても非効率な方法なのです。組織をより機能的に効率的に動かすには、思いやりが必要です。」才能の維持だけでなく、実際に物事をスムーズに、そして、きちんと行うには、お互いの思いやりが必要だと言っていました。 私が、YouTubeの影響で教会に新しい時代の風を吹き込んでいると思わないでください。イエスが山上の垂訓(マタイによる福音書7:12)で、旧約聖書の法を要約しながら言われたことです。私の聖書には旧約聖書が680ページ以上あり、ここでイエスはそれを簡潔に表現しています。私たちはこれを「黄金律」と呼びます。素晴らしいものなので、「黄金」と呼ばれています。イエスは単純かつ深遠に、「あなたがされたいと思うように、他人に対しても行いなさい。」と言っています。大切なのでもう一度言います。「あなたがされたいと思うように、他人に対しても行いなさい。」不思議なことに、私はTEDトークで黄金律を目にすることのほうが多いと感じます。実際、説教があったかどうかさえ覚えていません。もちろん、私たちは孔子の教えが「自分にされたくないことを他人にするな」と言っているのも知っています。それも悪くありませんが、大きな違いは、孔子は私たちの負の行動を制限するように指示しているのに対し、イエスは私たちに行動を呼びかけています。イエスは否定的なことをしないようにというのではなく、他人を肯定したり褒めたりするように呼びかけています。他人に自分のことを中傷されるのが嫌なら、他人に中傷しないようにしなさい、というのではなく、イエスは中傷しない代わりに、他人を肯定し、励まし、ケアするように私たちを呼びかけています。 人々が親切であり、お互いを励ましあうというのは、興味深いと感じます。最近、より多くの人が私に褒め言葉をくれますが、すぐに「しかし」と続きます。3週間前、言われた言葉は、「今日の説教は良かったですが、...」であったり、「EKKのために教会を時間通りに終わらせてくれてありがとう、しかし...」こういったご意見は正直かつ率直で受け止めます。ただ、本当に言いたい言葉は、褒め言葉でないことが分かります。 私自身(きっと他の方も)も「今日の説教は素晴らしかった!」と自画自賛しません。でも、褒め言葉の後にすぐ「しかし」が来るのは、本当の褒め言葉ではなく、実際には、相手への苦情や攻撃として使われることがあるからです。相手が褒め言葉で良い気分になった直後に「しかし」が来るので、より印象が悪いです。だから、何か私に対して言いたいことがある時は、褒め言葉は必要ありません、率直に問題を伝えてください。 私の説教を数週間聞いてくださっていたら、分かると思いますが、私は説教を様々な物語で終わらすことが好きです。先週は忍耐の物語があり、ある友人が夫のために絶え間なく祈る話でした。2週間前には、洞窟の中のエリヤの物語を語り、3週間前にはボンヘッファー牧師について話しました。今日は私たちの主について話したいと思います。親切は大きなことではなく、実際には小さなことですが、小さな親切の心が私たちにこの世界で生きていく意味を見出してくれるのです。 イエスがその活動を始めたとき、彼はある結婚式に招かれました。ユダヤの結婚式は音楽、食べ物、踊り、笑い、飲み物で祝われる大イベントです。それは1日だけのものではなく、時に数日続きます。結婚式のために、現代と同じように、人々はこういったイベントのために貯金をします。結婚式が上手くいくことが、幸せな結婚生活の保証ではありませんが、イエスの時代も現代と同じく、結婚式が上手くいかないと、それは不幸な結婚の前兆とみなされていました。この結婚式にはイエスの母(マリア)が深く関わっていたことが分かっています(マリアの親戚か友人である可能性)。結婚式の合間に、マリアはパーティーのワインが切れかかっていることを知ります。それはワインであり、ブドウジュースではありませんでした(何年か前に、ある説教者が15分間ほどワインは教会で許可されていないので、それはワインではなかった可能性があると説明していたことがありました)。マリアはワインが切れかかっていることをイエスに伝えます。「もうワインがなくなった。」これは世の中の問題の中で大したことではありませんが、それでもマリアはイエスに行きます。皆さんは、大きな問題だけでなく、小さな問題を抱えていたとしても、イエスのもとへ行けることを知っていますか?イエスは母親に、こう返答します。(この女性が誰であるかを覚えていますか?これはマリア、聖マリアです)「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」(イエスを何者か理解していますか? マリアも理解しています)。そして彼は続けて、「わたしの時はまだ来ていません。」と言います。それにもかかわらず、マリアは息子の大きな優しい心を知っているので、働いている人々に告げます。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」イエスは礼拝用の大きな壺を満たすようにし、その後、結婚式の主催者に壺から出てきたワインを試飲してもらうように伝えました(結婚式の主催者は、ゲストに提供される全てのものを最初に試食・試飲する必要があったからです)。 水が入った壺からワインが出てきていたのです。ただのワインではなく、これまでに飲んだ中で最もおいしいワインでした。主催者はこのワインがどこから来たのかさえ知らず、働いている人たちは、その真実を隠すようにイエスから伝えられていたので、主催者には伝えられませんでした。「左手がしていることを右手に知られてはいけない」というイエスの教えは、献金だけでなく親切行為についても実践されています。「そうすれば、あなたの行動を見ている天の父が、あなたを祝福なさる」。イエスは水をワインに変える必要はなかったのですが、イエス自身が言ったように、彼がその「出番を待つ」としてしまったら、結婚式という大切な時を台無しにしてしまったかもしれません。しかし、主は親切なことを行いました。私たちにも出来るでしょうか? このワインの話は、確かに奇跡ですが、盲目の人を見えるようにしたり、らい病者を治したりするような大きな奇跡ではなかったです。しかし、主の最初の奇跡は、他者に対する親切心から行われたものでした。私たちにも同じように小さなことからでも、親切を相手に届けることはできるのではないでしょうか? 祈りましょう
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