メッセージ:
90年代に横浜に住んでいた頃、私たちはYUC(現在はクラウディア牧師が奉仕している場所)に通っていました。当時、第二次世界大戦で破壊された古い教会の焼け残った跡地があり、礼拝後に子供たちが遊ぶ場所でした。がれきがあるので、少し危ないのですが、私が子供だったら、遊びたい衝動にかられる場所でした。 私たちはテッドさんのような管理者がいなかったため、ある日、その場所で教会の清掃をしていました。 私は木材と燃えるものを集め、それを燃やすように言われました。しかし、木材に火がつかないのです。そこで私はガソリンをかけ、火をつけました。すると、燃えるだけではなく、爆発して、火と点火で勢いを持った気化したガソリンが、私の腰から下に当たり、文字通り、比喩表現ではなく、私の足に火がつきました。 私の足はII度の火傷と病院で診断されました。その後、私は火傷の専門医を訪れ、3日ごとにバンドエイドを剥がして薬を塗り直さなければなりませんでした。 毎回、あおむけに寝ると、おそらく50代後半くらいの看護師さんが、こう言います。「この処置は痛いと思いますが、3数えてください」と私は数え始めます。時に彼女は2まで待ち、ある時は3まで待ちますが、彼女は滑らかに、一気に古いバンドエイドを剥がしてくれます。本当に痛くて、目から涙がこぼれ落ちたこともありました。 ある日、その看護師さんが忙しかったので、看護学校を卒業したばかりの若い優しい看護師さんが代わりに来てくれました。私はいつものように横になると、彼女は「痛いと思うので、優しく処置させて頂きます」と言ってくださいました。そして、彼女はゆっくりと、私の足のバンドエイドを引き裂いていきました。これは、本当に痛かったです。そして、私が処置台の上で泣いていると、いつもの年配の看護師が入ってきて、「何をしているの?」と言い、バンドエイドを一気に剥がしました。 なぜこの話をしたかと言うと、その年配看護師さんの毅然とした姿勢とケアが世界で一番優しいものだったからです。 傷ついた人々の世界では、私たちは人々を丁寧にケアする巧みな手が必要です。カウンセリングは私が持っている才能ではありません。ですから、他者にケアを求められた時は、私自身は、いつも率直に物事を言う自分ではなく、この若い看護師のように、物事をゆっくり進めるように努めてしまいます。 私たちはヨハネの福音書1:14からイエスが恵みと真実に満ちていることを知っています。恵みと真実に満ちていて、とても重要な箇所です。私たちは、よくどちらか一方に偏ってしまいます。あまりにも正直に、率直に伝えすぎ、結果として人々を信仰から遠ざけてしまうことがあります。 信仰に熱心であった、ある友人がいましたが、彼は夜中にトレドのバーが点在する場所に出かけ、人々に悔い改めて罪を犯すことから離れるように説得していました。もちろん失笑されました。彼は人々に真実を伝えていると言いましたが、恵みも慈悲も社交スキルもありませんでした。私は他の人々も知っていますが、何でもかんでも許容し、それが許容されたと言いますが、実際にはそうではありませんでした。そして、私たちは恵みと真実の中で、どちらか一方に感情的に落ちる傾向があり、誰もが完璧にバランスを取れているわけではありません。ですから、私は誰かと話す前に、祈ります。「神様、あなたの恵みと真実に満ちた存在となるように助けて下さい。」 その友人には、賑やかなバーではなく、静かなバーに入り、飲み物を買って座り、誰かとじっくり話す事をおススメしました。私の知る限りでは、彼は一度もそれを実行していませんし、誰かをキリストに導くことはなく、逆に彼自身のやり方を貫いたことで、人々を神様から遠ざけていたと記憶しています。 イエスは罪人や取税人と会い、話しましたが、彼らに話しかけなかったのです。これはファリサイ派がイエスに対し、問い詰めたことの1つです。イエスの兄弟であるヤコブは言います(ヤコブ3:13-16)、「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい」 私たちの知恵を示すのは、キリストとの関係によってもたらされた理解からくる柔和な行いです。これはこの時代の知恵ではなく、神様のメッセージ(ロゴス)につながった知恵です。 映画『モンタナの風に抱かれて』にはロバート・レッドフォードが主演しました。けがをしたり傷ついた馬と共に仕事をする実在の男性をモデルに描かれた作品です。実在するこの男性は、次のように述べています... 冷静に自身の軸を保つこと(私たちにとっては、それが霊に留まること、または古参者が言うように、「祈り続けること」です)。それには時間がかかることを理解してください。愛情を持って境界を設定します。馬が自身の意思で、ここに来るまで待ちます。 今から私たちが見るシーンは、馬が恐怖で逃げ出した状況です。主演のレッドフォードは馬を信じながら、馬が自分のところに戻ってくるのを待ちます。まるでルカの福音書15章にある、父親が浪費家の息子が帰ってくるのを待っていたように。 そのシーンを見てみましょう。 ヨハネの福音書21章では、イエスが初期の教会の岩(土台)となるペテロを助けます。私たちは、イエスが逮捕されたとき、ペテロは近くにいましたが、その後、イエスを1度でも、2度でもなく、3度も「イエスを知らない」と言いました。イエスはペテロに質問をします。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか?」とイエスは尋ねます。ペテロは、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えます。イエスは言います、「わたしの小羊を養いなさい。」まず、私たちはイエスがペテロに対して、友人としてではなく、正式にアプローチしていることが分かります。それは、彼を「ヨハネの子シモン」と呼ぶことでも示されています。 次に、小羊は小さくて弱い存在です。母羊が小羊を拒絶する際(それが起こることもあります)と、羊飼いには二つの選択肢があります:小羊をそのまま死なせるか、羊乳を搾って小羊に飲ませるかです。興味深いことに、その小羊は成長すると、群れの中の他の羊よりも羊飼いに最も忠実になります。それは、漁師でさえ知っている常識でした。 イエスは再びヨハネの子シモンに言います。「私を愛していますか?」再び、ペテロはは「はい、私はあなたを愛しています」と答えます。ここで、イエスはペテロに二つ目の使命を与えます。「わたしの羊を飼いなさい。」これは普通です。羊は(小羊と違って)自分自身で食べることができます。彼らが必要とするのは通常の命令であり、羊自身は基本的に自分のことを自分でします。 イエスは3回目に再度尋ねます。(そして私たちはペテロが3回イエスのことを「知らない」と言ったように、イエスがペテロに3回質問したことは重要です)「ヨハネの子シモン、私を愛していますか?」私たちは、イエスがペテロがこの関係にコミットするように、優しくですが毅然とペテロに尋ねたことで、ペテロの心が傷ついたことを知っています。ペテロは言います、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています。」 イエスはペテロが彼を愛していることを知っていましたが、ペテロがどれだけイエスを愛しているか、自覚していない事を知っていました。そのため、イエスはペテロに心の鏡が見えるようにしていたのです。イエスからの最後の命令は、「私の羊を養いなさい」でした。 1回目、2回目までは理解できますが、3回目は理解できません。羊はすでに自分自身で餌を食べることが出来ます。しかし、イエスは、人生のトラウマや困難のために、通常のことをする能力を失った者もいることを知っています。そういった人々は霊的なエネルギーを必要としていますが、トラウマや困難のためにそれができなくなっています。そのため、イエスはペテロに子供だけや、通常の人をケアするようにと呼びかけるのではなく、弱い者や困っている人たちをケアするようにと呼びかけています。彼らは、親切かつ真実の愛の手を通して、また健康に戻れるように導かれる必要性があります。 あなたが傷ついた羊の1人であるような気がするならば、それを自分の中だけに留めておかないでください。できれば、あなたを祈ってサポートしてくれる、しっかりした人に伝えてください。霊的に成熟した人々からサポートを受けるだけでなく、イエスにも告げ、彼があなたをケアするために彼の愛の御手であなたの心に触れさせてください。なぜなら、イエスは私たちに言います。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙虚な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 祈りましょう。
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May 2024
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