誕生日おめでとう。今日は、キリストの愛を受け入れたすべての人の誕生日です。「イエスは我が主」と告白し、神がイエスを死からよみがえらせたと信じれば救われます。救われる「かもしれない」とか、救われる「可能性がある」とかではなく、着実に救われるのです。
私たちには各々誕生日がありますが、今日は私たちの主が復活された日です。ですから今日は私たちの霊的な誕生日です。 ところで、誕生日を祝うのにプレゼントをもらい、ケーキのろうそくを吹き消したりするのは何だか変だと思っていました。生まれる時、生まれる本人が大きな仕事をするわけではありません。 私の誕生時には、エブリン・バーチが1月5日に大変な仕事をやり遂げました。私の父カールは、廊下でただ待っているだけでした。 私の二人の息子の誕生時には、私も分娩室でヒッヒッフーの呼吸を力の限り行いましたが、実際に出産の大仕事を行ったのはステファニーでした。 あなたがキリストを主として、また救い主として受け入れれば救われて、新しく生まれることになるのですが、神との和解を取り持つ大きな働きをしてくださるのはイエスです。 「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(ヨハネの手紙一 5:11-12)。 何年か前に「牛乳ある?」(Got Milk?) というアメリカの有名なコマーシャルがありました。イエスを心の中に受け入れれば、「いのちを得る」(Got Life)ことができます。まだイエスを受け入れていない方は、私か教会の誰かに話をしに来てください。このすばらしい「いのち」について説明します。 今日の聖句は、マグダラのマリアと他の婦人たちが、自分たちを愛してくださり、自分たちも愛したイエスの墓に行った場面です。十字架刑の後、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモがピラトに願い出て、イエスの遺体を降ろし、埋葬する許可をピラトから得ました。その日は過越祭の準備の日だったので、アリマタヤのヨセフが所有していた近くの墓にイエスを埋葬することにしました。 婦人たちは注意深く、細かいところまで気が回るのですが、反対に男性たちはイエスの遺体(皆はイエスが死んでしまったと思っていました)にするべきことを何もしていないと思っていました。それで婦人たちはイエスの体を清める儀式をしようと、兵士が見張りをしているはずの墓へ行きました。その時、墓の入り口をふさいでいる大きな石を女性だけでは動かせないことに気がつきませんでした。(悲しみに打ちひしがれているときは、物事を論理的に考えられなくなるものですよね)。 明け方まだ暗いうちに、婦人たちは丘を上って墓に行きました。近づいてみると番兵はおらず、入り口の石は取り除けてありました。イエスは、ご自身が死から復活すると31回もはっきりと話されたり暗示されたりしていたのに、空の墓を見た婦人たちは復活されたという考えには及びませんでした。少なくとも31回はその話を聞いていたにもかかわらずです。 婦人たちが最初に思ったのは、イエスがまたひどい扱いを受けたのかもしれないということでした。ユダヤ人指導者やローマ人といった権力者がイエスの遺体を動かしたのだと思いました。「イエスを殺しただけでなく、私たちにお別れの挨拶もさせないなんてひどすぎる」と思いました。 時には人生がつらすぎると思う時期があります。人生が大変な時、恨んだり敵意を持ったりしてはいけません。アルコールに逃げてもいけません。無視したり押しやったりしてもいけません。苦悩を神にゆだねてください。神はあなたの苦しみをご存じです。聖書で最も感銘深い聖句のひとつは、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)です。私たちの主イエスは、苦悩や喪失感を知っておられます。悲しみとはどういうことかを知っておられます。 マグダラのマリアは弟子たちがいる所へ走って戻り、墓の様子を告げました。主であり師である方が墓から取り去られたと聞いて、ペトロとヨハネは丘へ走り出しました。ヨハネは元気で早く走ったので、ペトロより先に墓に到着しました。次にペトロが墓に着いて見てみると、マグダラのマリアが言ったように石が取り除かれ、イエスの遺体は無くなっていました。 聖書の物語には興味深い詳細が記されています。もしイエスがあなたの家に来られたら、行儀のよいお客になることでしょう。というのは墓の中には、イエスの頭を包んでいた覆いが、血で汚れていたはずの他の布と別に置いてあり、しかもたたまれて置かれていたからです。 ペトロとヨハネは立ち去ったようで、マリアは一人で墓の外で泣いていました。自分を苦悩から救い出してくださったのに、今は亡くなってしまった方のために泣きました。希望のすべてだった方のために泣きました。このマリアは、イエスに救われる前は売春婦だったと言われているマグダラのマリアです。イエスによって、体を売るという屈辱的な職業から抜け出すことができただけでなく、七つの悪霊も追い出してもらいました(ルカ8:26)。 ですからイエスがいなくなった今、自分はどうなってしまうのだろうと思ったのに違いありません。昔の生活に戻ってしまうのだろうか。悪霊が自分の中に再び戻って来るのだろうか。これから自分に何が起こるのだろう、と。 このマリアを、そして私たちを、割れた器に例えることができるでしょう。先週お話ししたように、私たちは何かに捕らわれて生きていますが、その不健全な締め付けから解放されなければなりません。私たちは皆、いわばどこかが壊れている存在です。 約11年前、私たちのうち何人もの人が、東北大震災後の東北へボランティアに行きました。その中で、ある女性を手伝って、海水の浸水と割れた食器でひどい状態になった家を片付ける仕事をしたことがありました。女性は地震で夫を亡くしていました。私は割れて粉々になった食器を次々に拾っていきました。その時私は日本語がそれほどうまくなかったので、女性が私に気兼ねすることなく嘆くことができたのはよかったと思います。 その人は割れた皿を一枚ずつ手に取って、じっと眺めて涙を流しました。私が十字を切ると、彼女は皿をごみ袋に入れ、次の割れた皿を拾い上げるのでした。その出来事で私は、旧約聖書の預言者エゼキエルが、谷の上いっぱいの骨を生き返らせることができるかと神に問われた時のことを思い起こしました。エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えました。 イースターによって、復活によって、「谷の上の骨は生き返ることができます」と私たちは自信を持って答えることができます。 私たちは皆、多かれ少なかれ壊れている所があります。壊れている箇所をじょうずに隠している人もいます。 イエスの宣教は、私たちの内部にある壊れた皿を修復することに焦点を当てたものでした。「わたしが来たのは、傷ついた心を慰めるためである」とイエスは言われました。 日本には金継ぎというすばらしい技術があります。 勤務する学校の校外学習で京都に行き、生徒と一緒に見学したことがあります。金継ぎの技は、割れた(粉々になったものでも)器の破片を元に戻すものです。東北で私がしたように割れた器を捨てたり、100円ショップで新しい器に買い替えたりするのではありません。金継ぎは、器の割れた隙間に漆を塗り金粉を蒔いて器を美しく修復する技です。割れた器が再び使えるようになるだけでなく、割れる前より美しくなります。金継ぎの実演を見せてもらいましたが、その時使用したのは何と東北大震災で割れた器でした。熟練の職人は細かい作業でその器をきれいに再生させました。 素晴らしい技術である金継ぎも、そしてまた私たちの信仰も、どんな接着剤を使ってもそのひび割れた部分を完全に隠すことはできません。ひび割れを恥ずかしいものとして隠すのをやめましょう。そうではなく、私たちを癒し、修復してくださった神に感謝しましょう。 私たちはかつて道に迷っていましたが、今は見つけていただきました。 以前は盲目でしたが、今は目が開かれました。 以前は死んでいましたが、今は生きることができます。 マグダラのマリアが、復活されたイエスを見て最初の証人になりました。イエスが生きておられると告げた最初の伝道者となりました。 イエスが生きておられるから、私は明日に向かうことができる。 イエスが生きておられるから、すべての恐れは消え去る。 私は知っている。イエスが未来を担っておられると。 イエスが生きておられるから、人生は生きるに値すると。 祈りましょう。
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