今日のヨハネ6章は、聖書の中で最も長く最も深い意味を持つ章の一つです。章の始めでイ
エスは男性だけで5千人、全部でおそらく7千人から1万人に食べ物を与えました。 私は勤務する学校の入学式で生徒にお団子を配りましたが、私ともう一人の教師と二人で 、240人の生徒に箱に入ったお団子を配るのに20分か30分かかりました。7千人から1万人 となると想像もできません。これは「比喩」だと解釈する人もいれば(私は同意できませ ん)、イエスが皆の寛大さを促し、皆で分け合って食べたのだと信じている人もいます( これも同意できません)。人々を利己的な心から寛大な心に変えるのは奇跡的です。自分 一人で群衆を寛大にできるか試してみてください。 私たちにわかるのは何かが起こり、イエスが群衆から離れて弟子たちが舟に乗り湖を渡っ てからも、人々がイエスを追い求めたことです。 この群衆は、目を引き付けるものを目撃したので、イエスに執拗に付いてきました。しか し群衆がイエスに求めたのは間違ったものでした。メシアではなく、自分たちの王を求め る人たちと同じような間違いでした。見世物としての奇跡を見たがり、アンコールを叫び ました。イエスがパンと魚を出してくれたことに感動しました。それにびっくりするほど おいしいものだったはずです。まるでこういう会話が成り立つようです。「今日の夕食に 何が食べたい?」「何が食べたいか知っているでしょう。以前あの大工の人が作ってくれ たパンと魚よ」。 一方のイエスは大人数の人々に食べ物を与えて、人々が食べている最中に弟子たちを強引 に舟に乗せました。それは弟子たちが、群衆からの人気ぶりに心をゆさぶられつつあった からだと思います。人気は誘惑です。 ある有名な俳優が名声について話していた記事を読んだことがあります。レストランでフ ァンに取り囲まれてサインや写真を求められるのは好きではないが、それよりもっと悪い のは、街で誰も自分に気づいてくれないことだと言っていました。(私にはこういう心配 はありませんが)。 今の時代のインフルエンサーと同じように、弟子たちは自分たちのプラットフォームをよ うやく持ちました。フォロワーが今日は5千人、明日はおそらく1万人、その後はどれだけ 増えるか。こういった有名であることの魅力と誘惑をイエスは知っておられたので、弟子 たちを舟に乗せ岸から離し、ご自分は祈るために山に退かれました。 その後、弟子たちは一晩中嵐と闘いますが、そこへイエスが嵐の湖の上を歩いて舟に近づ いて来ました。イエスが水の上を歩く有名な話です。個人的に私は「水の上を歩くイエス 」という表現が好きではありません。イエスが水の上を歩くことができるのは、私の信仰 の範囲内です。しかし、ペトロが舟から出てイエスの方へ水の上を歩いたように、イエス とつながることによって、私たちもまた水の上を歩くことができるというのが私にとって は驚きです。あなたにもできますか。イエスに召されているのなら、備えていただけます 。しかしイエスに従うには、力と勇気が必要です。 今日の説教はペトロや舟の話ではなく、今日の聖書箇所の直前に起こった出来事について です。イエスは舟に乗られると波に話しかけ、波は耳を傾けました。イエスは単なる教師 ではなく、パンと魚を増やす人というだけでなく、まさに神の御子でした。 翌日反対側の岸辺で群衆はイエスと弟子たちに追いついて、イエスにどうやって向こう岸 に渡ったのか素朴な質問をしました。イエスは返答せずに話題を変えました。イエスが湖 の嵐を静めたのは群衆のためではなく弟子のためでした。人生には疑問や問題に立ち向か わなければならないときもありますが、時にはそういった疑問が邪魔になるときもありま す。それでイエスは「はっきり言っておく」と言われ、話題を変えられました。 イエスが「はっきり言っておく」と言われるときは、重要なことなので注意を払って聞い てください。この言葉は、教師の私が教室で「この箇所はテストに出る」と言う時と同じ 効果があります。生徒が集中して耳を傾けます。ですから注意深く聞いてください。イエ スは群衆に対して、イエスを追ってきた動機に目を向けるよう促しています。みなさんの 動機はいかがですか。なぜ今日教会に来たのですか。私の話を聞くためだけではないのは 私も分かっています。人みなそれぞれ礼拝の中の好きなものが違います。祈りの時間が好 きな人もいれば、ワーシップソングを歌うのが好きな人もいるし、説教の時間が好きな人 もいます。しかし私たちが集まる動機は、生きておられる主に近づくためであるべきで、 これに尽きます。ところが聖書のこの箇所の群衆の動機は、食べ物の配給や奇跡の見物で した。イエスはここで「動機」について、深く掘り下げて問題を提示しています。 なぜ今日ここに来たのか。イエスは群衆が自分を追い求めて来た動機が、見当違いである ことを知っておられました。彼らの動機は、天の父と霊的なつながりを深めるためでも、 宇宙の創造主とのより深い関係を育むためでもありませんでした。メシアではなく王がほ しいと望みました。人は動機を問われるのを好みません。 私も説教するたびに、なぜ自分は説教しているのかと自分に問うています。ビートルズの 曲、「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」の歌詞を知っていますか 。 「僕の歌がヘタクソだったら、君はどう思う?立ち上がって、出て行ってしまうかな?」 答えは「うん、そうだね」でしょうか。 イエスはメガ・チャーチ(巨大教会)を失った最初の人です。彼らはSNSのインフルエンサ ーになる代わりに道を爆走し、もう戻ろうとしません。イエスはそういう人たちに問いを 投げかけます。本当の優先順位は何か、なぜ莫大な時間とエネルギーを、はかないものに 費やすのか、と。 私は出費を抑えるためのルールを決めています。新しい服を一着買ったら、古い服を一着 捨てます。捨てる服がなかったら、新しいシャツは買いません。多くの人が世俗の物欲に 囚われています。イエスに、財産をすべて捨てるようにと言われた裕福な若い支配層の人 と同じです。所有することが悪いのではありません。所有することに囚われるのが悪いの です。世俗のものを追い求める余り、永遠に続く霊的なものを見逃してしまうのです。 ここに問題があります。神は、人間が食べ物、水、休息を基本的に必要とするよう創造さ れました。私たちはそれらがすべてだと思い込んでいます。しかし永遠のいのちを求める なら、この必要性の優先順位を逆にしなければならないと主は言われます。もしあなたが 今日のことだけ考えているなら、今日を生き抜きなさい。しかしイエスをあなたの主、あ なたの師と認めるなら、私たちの必要順位は逆さまになるとイエスは明らかにしています 。 このことはヨハネ4章に登場する井戸でのサマリアの女とイエスの会話に、はっきりと表さ れています。女が永遠の命に至る水をほしがったのは、神に近づきたいからではなく、丘 を上って水を汲みに来なくてもよくなるようにでした。それでもその女性は最終的に命の 水を得たのでした。 子どもの頃、私の教会の牧師が、家にある一番古い食べ物を教会に持ってくるように言い ました。そして賞味期限が10年以上前に切れているラーメンを牧師が食べていました。食 品の賞味期限は、食べても害がないかどうか見極めるために表示されており、国が健康上 の安全を保証するものです。同じように、神は神のしるしを御子イエスに表示されました 。イエスが群衆に食べ物を与えたように、私たちがイエスを信じれば、イエスは食べ物以 上のものを私たちに与えてくださいます。 多くの人が、イエスは賢明な師と認め、その教えを生活の中で実践しています。自分にし てもらいたいことを人に行えば、あなた自身の人生がよくなるだけでなく、周囲の人も恩 恵を受けます。明日を心配せずに生きることができれば、もっと生産的で幸せな人生を送 ることができます。 イエスは「偉大な師」であると同時に、もっとそれ以上の存在です。 しかしイエスを師として受け入れても、主として、救い主として認めなければ、それはパ ンと魚は受け取るが、命のパンと命の水を拒むのと同じことです。 人々は、神が求める働きをするにはどうすればよいかと尋ねます。信仰さえあればよいと いうのは単純(あるいは感傷的)過ぎるという考えに、イエスは問題提起をしています。 人はよく困っている人に食べ物を渡すとか、病院や学校を建てるとかといった目に見える 形での働きを切望し、信仰を取るに足りない些細なものと退けてしまいがちです。イエス は、求められている働きは信仰のひとつだと言っています。働きは楽しくないものと言っ ているのではなく、努力が必要だと言っています。目に見える仕事より努力が必要です。 私は教会で週10時間ほど働いています。そのうち少なくとも週1時間を教会のための真摯 な祈りに費やし、仕事の10分の1を差し出しています。私の心はさまよいますが、これは 働きだと自分に言い聞かせています。これには説教原稿を書いたり牧会をしたりするのと 同じ努力が必要です。もちろん信仰の働きに沿った行動が必要です。ヤコブ書が説いてい るように、働きをしない信仰は死んでいますが、信仰のない働きもまた無意味です。 私たちの最も優先すべき仕事(働き)は、神が私たちに送ってくださったイエスを信じる ことです。 群衆は、バプテスマのヨハネに出会った人々と同じ反応をしました。彼らはアブラハムの 子孫だと主張し、血統を誇りました。また、祖先が荒野でマナを食べたことを自慢し、ユ ダヤの血筋を自慢しました。しかしイエスは彼らの誤った神学を指摘しました。マナを天 から降らせたのはモーセではなく神である。モーセがマナを降らせたと聞いたら、モーセ は動転したでしょう。 マナについて説明すると、エジプトから脱出するとき、イスラエルの民は主の御使いが家 々を通り過ぎる(過ぎ越す)前に、急いで酵母を入れないパンを焼いて食べました。これ が過越祭になりました。御使いはイスラエルの民の家の入口の柱に塗られた羊の血を見て 、あるいは匂いで、その家を過ぎ越しました。 しかしエジプトから脱出した後、民は荒野で不平を言うようになりました。礼拝美の反対 は不平ですが、彼らは何も食べる物がないと不平を述べたてました。 神が天から降らせたマナは、白い薄片状のパンでした。マナの賞味期限は1日で、安息日の 前日に降るマナだけ2日持ちました。荒野を旅するイスラエルの民は、毎日マナを食べるこ とができました。マナをその日に食べずにいたり、保存したりすると臭くなって腐敗しま した。しかし、マナの一部は壺に入れられ、契約の箱の前に置いて蓄えられました。普通 は腐敗してしまうマナは、このように礼拝と神聖に結びついて、新鮮なままで保存されま した。 では私たちを腐敗させようとするこの世の中で、私たちはどうやって霊的新鮮さを保つこ とができるでしょうか。その答えは礼拝と賛美にあります。もしあなたの信仰が枯渇して いると感じるなら、もっと聖書を読もうとするより、主を賛美する歌を歌ってください。 最も偉大な預言者で指導者の一人であるモーセがマナを降らせたのではなく、それは神が なさったことです。そして神の御子も同じことをされました。イエスは人々にパンと魚を 与えましたが、それよりもっと多くのマナを天から降らせる準備ができています。それな のに人々は魚を求めています。 同じように神は今、天から命のパンを与えてくださいました。1日しか持たないマナと違い 、命のパンであるイエスは、私たちの魂を永遠に育んでくださいます。契約の箱の前のマ ナと同じようにずっと新鮮であり続けます。 群衆が、天からのパンをくださいと言った時、イエスは「わたしが命のパンである」と言 い、彼らを驚かせました。「わたしがパンである」。 イエスを信じ、このパンを食べる者は決して飢えることがありません。イエスは自分の意 志を行うためではなく、天の父の御心を成就するために天から降って来られました。父と 子は一体だからです。 イエスを信じる人を、イエスは最期の日に天に上げてくださいます。愛と心を主にゆだね る羊を、イエスは一頭も見失うことはありません。 この贈り物を受け取るために、主から与えられた課題を引き受ける用意ができていますか 。もし準備ができているなら、あなたの手を差し出してこの方の手の上に置いてください 。湖を静めた方の手に、波を凪にした方の手に。 自分をよく見つめてみれば、ほかの人も違って見えます。 ガリラヤの人の手にあなたの手を置いてください。 祈りましょう
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