創世記50:15-21
ヨセフの兄弟は父が亡くなったので、ヨセフが自分たちを恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに伝えた。「父は亡くなる前に、こう命じていました。『ヨセフにこう言いなさい。確かに兄弟はお前に悪いことをした。だがどうかその背きの罪を赦してやってほしい。』それでどうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。」この言葉を聞いてヨセフは泣いた。やがて、兄弟もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して言った。「このとおり、私たちはあなたの僕です。」ヨセフは言った。「心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。ですからどうか心配しないでください。あなたがたと幼い子どもは私が養いましょう。」ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた。 神様、あなたの思いと道は私達のそれらより遥かに勝ることを認めて(イザヤ55:9)、御前に参ります。今日の御言葉を通してあなたの更に偉大な目的を私達に明らかにしてくださいませ。主と救い主の御名、イエス・キリストを通してお祈りいたします。アーメン 今月は「傷ついた心の癒し」と言うテーマでお話ししています。今月の初めに、クラウディア牧師が癒しに希望があること、チャック牧師が別の頬を差し出し、赦す中に私達の癒しがあることを話されました。 私達の多くは赦しが重要であることを知りまた理解しています。私達の主であり救い主は完全に人間として、神として私達に罪を赦すためにこの世に来られたのですから。 先週、主イエスの言葉を通し「あなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エペソ4:32)「そうすれば私達も赦されるであろう」(マルコ11:25)ということについて私達は学びました。癒しの過程で、皆さんはこれらの教えがどのように実際に働くのかと思われているかもしれません。神様が既に私たちを赦されているので、私達も赦すことができるのでしょうか?或いは、私達が赦した後で赦されるのでしょうか? どちらなのでしょう? 実は先週、このことを日本語バイブルスタディで話し合いました。 しかし、赦しがどのように働くか、赦しや癒しがどの手順を要するのかなどは、今日読んだ聖句の大切な点を見逃すことになってしまうと私は思います。赦しを段階的な手順として扱うと、聖書を自己啓発の書か、チェック項目を一つ一つ調べるものとして扱うことになります。しかし、聖書はそれ以上のものです。聖書は神の息であり、生きた言葉です。聖霊の導きによって、神の御心が私達に明らかにされるのです。 皆さんもお分かりのように、赦しは簡単ではありません、クリスチャンにとって赦すことの重要性を知るがゆえに、むしろ赦しが難しくなると私は感じます。私達の主、救い主は、命をかけて赦しを実践され、模範を示されました。しかし、私達の中に赦すこと、赦されることに関してイエス様の教えを実践しなければという自分の思いと絡み合った期待があるために、この件に関して、私達は自分達や他人にさらなるプレッシャーをかけているように思うのです。 ヨセフの物語は赦すことが本当に苦悩を伴う事を私達に見せています。新約聖書にみられる単刀直入の赦しの命令と言うより、ヨセフが兄弟達を赦す経路を見つけながら、この話は段階を経て、ヨセフにとっての赦しの旅路へと私達を誘うのです。しかもこの過程は歯切れの良いものではありません。啓発書のような段階を経る過程もありませんし、かなりダイナミックで、複雑で、厄介なことです。皆さんはヨセフの話をもうご存知だと思います。今朝読んだ箇所は話のクライマックスに当たる部分で、創世記の最後に出てきます。ヨセフの話は13章も前の37章から始まり、話はカナンの地から始まります。ヨセフは羊飼いで、17歳、ヤコブを父とする12人兄弟の一人でした。 話は多くの人間が陥る典型的なことから始まります。えこひいきです。 創世記の中には人間が特定の人間をえこひいきする多くの例を見ます:父が一人の子を他の子より好む、夫が一人の妻を他より愛する。このえこひいきは憎しみ、分断、分裂、罪を育てるのです。アダム、サラ、ハガル、カイン、アベル、エサウ、加えてヤコブ。ヤコブはヨセフを他のどの子達よりも愛していました(創世記37:3)。このえこひいきは兄弟間で沸き上がる憎しみと嫉妬を誘い、ヨセフの兄弟達は「ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(創世記37:4)と言う点に達していました。 ヨセフ自身の言葉や行動はこの緊張感の火消しとはなりませんでした。ヨセフは他の兄弟達のことを父に告げ口をしたのです(創世記37:2)。彼は兄弟達の悪口を言ったのです。ヨセフは彼らを支配し、王となり年長の兄弟達が彼に平伏す夢を話しました (創世記37:5-11)。 当時、最年長の息子が特別の祝福と生得権を受けるという環境において、ヨセフが最上の栄誉を受けるであろうという示唆は兄弟達には受け入れがたいものでした。この事は既に緊張感のある関係性を更に悪化させ、事態を素早く動かしました。ヨセフの兄弟達のヨセフに対する憎しみは悪化し、その憎しみはすぐに彼を殺害する企てとなりました (創世記 37:18)。話を短く要約すると、結局ヨセフ殺害計画は実行には移されませんでした、それは全ての兄弟達が弟を殺す考えに賛同しなかったからです。それでその代わりに、銀20枚で彼らは奴隷としてヨセフを売りました。ヨセフはエジプトに連れて行かれました。 エジプトについた後も、ヨセフの人生は山あり谷ありでした。彼はエジプトの侍従長の家の僕として仕えていました。彼は成功する者となったのですが、主人の妻と寝たという犯人に仕立て上げられ、監獄に入れられましたのです。しかし監獄でも彼は助けられ、全ての囚人を管理するようになり、また賜物として与えられた夢の解き明かしを活用したのです。だが彼の良き行いは忘れられ、彼の無罪も証明されませんでした。(創世記39-40) 2年が経ち、彼はエジプトの王であるファラオの夢の満足のいく知恵ある解き明かしをしました。それは全ての呪法師と知恵ある者達が説明できなかったことでした。彼の解き明かしや、やってくる飢饉に備えた国の収め方の指示に感心し、ファラオはヨセフを監獄から出し、彼を取り入れ、エジプト全土を支配する地位を与えたのです (創世記 41)。彼が被った全ての災難は今や祝福となって償われたようでした。彼の人生で経験した全て、捨てられ、奴隷として売られ、監獄で忘れられたこれらの事は今や過去のこととなったのです。 実は、彼は今や結婚し、自分の子供達さえ持つようになりました。彼は自分の長子にマナセと名付け、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」という意味を込めました(創世記41:51)。捨てられ、売られ、彼がエジブトに連れ出されてから13年も既に経過していました (創世記 41:46)。 しかし神はヨセフに家族がカナンにいることを決して忘れてはいませんでした。ヨセフがファラオの夢の解き明かしで予告したように、7年間の豊作の後、飢饉がエジプトやその周辺諸国に訪れました。ヨセフの国家管理の指導のもと、エジプトは来るべき飢饉に十分な穀物を備蓄することができました。今や、エジプトの周辺の国々、町、村から人々がヨセフのもとに来て、飢餓で死なないように食物を求めて助けを伺いに来ました。 ヨセフのもとに来た人々の中に、ヨセフの兄弟もいたのです。彼らは会いに行った方が、異国の地で権力ある地位にまで上りつめたヨセフであることに全く気がつきませんでした。兄弟達はヨセフは死んだとものと思い込み、エジプト王宮の権力者が実は彼らの弟であることを知りませんでした。しかしヨセフは彼らを見たとき、彼らが自分の兄弟達であることを悟りました (創世記 42:8) 。しかしヨセフは彼らに自分が何者であるかを明かしませんでした。今ではない、すぐにではない。その代わり、ヨセフは彼らを観察して、何かを確認しようとしていました。 最初に、ヨセフは兄弟達をスパイ容疑で非難しました(創世記 42:9)。ヨセフは彼らの命を脅し、監禁しました。そして、兄のひとりを捕虜として監禁し、残りの兄弟達を家に帰し、一番年下のベンジャミンを連れてきてヨセフに会わせるように命じたのです (創世記 42:15-17) 。その会見の後、ヨセフは銀の杯をベンジャミンの袋にこっそり入れて、それを盗んだとベンジャミンに濡れ衣を着せたのです (創世記 44:1-12)。濡れ衣を着せられ、命を盗られる、もしくは奴隷にされるそんな状況に彼らを陥れる時、ヨセフはベンジャミンの命を救うために兄弟達が自らの命を引き換えにするかを確認したかったのです。自分に対してしなかったことを弟のベンジャミンにはすることができるのか? なぜヨセフはこのような行動を取ったのでしょう。彼の動機は何でしょう。聖書は時間をとってその説明はしていませんが、彼が兄弟達にしたことは、まさに兄弟達が彼にしたこと、冤罪、監獄にいた時間、奴隷にされたことと同じことのように思えます。ヨセフはこのようにして兄弟達に復讐をしたかったのでしょうか。あるいはヨセフは兄弟達自身犯した過ちについてどの程度自責の念をいだいているか、彼らに悔い改めの思いがあるのかを見極め、今や違う行動を取ることができるのかどうかを探っていたのかもしれません。ヨセフは彼らが後悔しているかどうか知りたかったのではないでしょうか。 ヨセフの話は人間が人を赦すことの苦しみとそれがいかに難儀なことかを包み隠していません。ヨセフはここでは聖人として描かれてはいません。ヨセフは簡単に兄弟達を赦してはいません、彼には時間が必要だったのです。ヨセフは兄弟達が苦しむのを見る必要があったのです。兄弟達が恐怖とヨセフにしたことに対する罰に苦しみ、彼らの命が滑落していくのを見る必要があったのです。 ヨセフが兄弟達を赦すために、これら一連のことを見る必要があったのです。だが、それは本当でしょうか。本当にヨセフは時間が必要だったのでしょうか。本当にヨセフは兄弟達が苦しみ、恐怖に陥れることを赦すために見る必要があったのでしょうか。ヨセフは権力ある地位に上りつめ、兄弟達を赦す前に、遠く及ばない距離に君臨する必要があったのでしょうか。今朝の聖書箇所にたどり着くまでの、20年いやそれ以上の歳月がヨセフにとって、彼の赦しの過程にとって必要だったのでしょうか。この時間がヨセフにとって「私はあなた達を赦します。」と言うのに真底助けとなったのでしょうか。 また、兄弟達も「すまなかった、どうか赦してください。」と言うのにこの20年以上の時間が手助けとなったのでしょうか。今朝の聖書箇所は、時間というものが赦しの過程を容易にするとは言ってないようです。兄弟達は彼らのしたことに対して謝罪する事はなく、ただ恐怖を抱いていました。謝罪するどころか、彼らの父ヤコブの名において話を捏造しました。彼らはヨセフに、彼らの父が死ぬ前に彼らの犯した罪、ヨセフを傷つけた罪を赦すようにとヨセフに指示したと告げました(創世記50:16-17)。時間というものが兄弟達に誠意ある悔い改めや謝罪へと導いたとは思われません。それどころか、彼らの潜在する未解決の恐れと怒りを時間は悪化させました。時間は悟りをもたらしませんでした。兄弟達が赦しを乞うもっと適した方法へと導きもしませんでした。それでは何がヨセフと兄弟達を一緒になるよう近づけたのでしょう。それはきちんとした謝罪でも赦しの行為でもありません。それは心と心の通い合い、それと彼らを一緒に連れ戻した神を見上げようとしたことです。 ヨセフと彼の兄弟達は、いわゆる正式な赦しを交わす行為を互いにやりとりしたわけではありません。ヨセフの兄弟達は謝罪を言うことはありませんでした。ヨセフも彼らを赦すとは言っていません。しかし彼らが顔と顔を合わせて話したとき、何かが起こったのです。ヨセフは声を上げて泣いたのです。兄弟達も泣いたのです。彼らが共に持っていた心の傷がつながり合わさったのです。 ヨセフの兄弟達はヨセフの大きな心の痛みを見て、ヨセフは兄弟達の大きな心の痛みを見たのです。 なんとも言いようのない、誰もが傷つきやすい状況下で、ヨセフが兄弟達に言ったのは、次の言葉でした。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)。時間ではなく、悔い改めでもなく、正式な謝罪でもない事が状況を赦しへと変えていったのです。それは他の人の痛みを見ようとする気持ちです。人のすべての悪意や傷心の下に神の善き御意志、計らいを見ようとする気持ちがヨセフにあったのです。神の善き御意志は人の悪意より遥かに大きく、力があるのです。神は更に多くの人々に大きな善をもたらすために、苦しむ人、罪を犯した人を通して我々に手を差し伸べられるのです。 ここでの神の御意志、計らいとは、無数の人々の命を助けることです。もし成熟したヨセフが兄弟達を赦さず、兄弟達と彼らの子供達の面倒を見なかったら、イスラエルの人々は飢餓で死に絶えていたはずです。彼らの人口は決して増えることはなく、出エジプト時代に脱出するような大いなる民族にはなっていなかったでしょう。彼らの宿命はここで終わっていたはずです。もしヨセフが兄弟達を赦さず、面倒を見なかったら、数千年後に小さな家族の飼い葉桶に寝かされた子の誕生は起こらなかったでしょう。イエス・キリストはユダ族から生まれ、ヨセフの兄の一人の血筋だからです。神の御意志は時が満ちた時に表されるのです。 先ほど言ったように、今日の聖書箇所ではヨセフは口に出して「赦す」とは誰にも言っていません。彼は「赦す」と言う言葉を使っていません。ヘブル語で「赦す」はnaså この言葉は私達の知る赦し、赦免、免罪と言う意味があります。しかし同時に英語で言う「上げる」と言う意味も含んでいます。同じ言葉が有名な詩篇121:1「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主のもとから天と地を造られた方のもとから。」にあります。 私が思うに、ヨセフは彼を傷つけた兄弟達を超えた偉大な助け手である主に彼の目を上げたのでしょう。彼は人間ができる全てのやり方で赦そうとこころみた、時間をとり、忘れようとし、権力を使い、兄弟達が真に悔いているか確かめるために探ったりしました。 神はヨセフが通ってきた苦しみや心痛を認めています。この事はこの話の大切な要点となっています。もしヨセフが簡単に兄弟達を赦していたら、3節くらいの例え話で終わっていたでしょう。だがそうではないのです。13章もかけたこの話はヨセフの身の上に起こったことに大変な思いをしながら生きていく旅路を描いたお話なのです。この話の中で、神はヨセフと共におられます。これは繰り返し、繰り返し見られます (創世記 39:2, 3, 21,23) 。神はヨセフと共におり、しかしながら神はヨセフに赦しに至るための必要なスペースを与え、自由意志を与えました。神はヨセフを信頼し、育て、ヨセフが彼の痛み、傷心、赦しや復讐の気持ちを超えて神に目を上げるまで待っておられました。 苦しみは私達の視野を偏狭にします、その瞬間的にも、或いはその後何年にもおいても。ところが私達の表面上の経験の下にある神の厳粛な、大きな御意志と計らいに気がつくとき、私達自身の苦しみを超越する神の偉大な御力に気がつくとき、正しくしかも憐みを持って私達は動き出すことができるのです。預言者エレミヤ(29:11)が言ったことに到達するのです。「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。」 主イエスが赦しなさいと命じておられるので、私達が信仰共同体として赦しを真剣に受け止める必要があるのは私たち一人一人が分かっている事だと思います。しかし今朝のヨセフの話を通し、赦すと言うことに苦しんでいる人達、そしてそれほど簡単ではないと思う全ての人々にとって慰めになることを願います。 神は赦すということがどんなに難しいか分かっておられます。神は、あなたを傷つけた人々が正式な謝罪をあなたにしていないかもしれないこと、あなたが望むような悔い改めをしていないかもしれないことをご存知です。それでも神はあなたを信頼しています。あなたが、神がどのような方であるのかを知る限り、全ての事柄の表面下で善い方向に向かっている神の御心をあなたが知る限り、そこにあなたの道は見えてくるのです。なぜなら、あなたが目を上げて見ると、悪を超えた善いものが見えてくるからです。あなたは悪の中に神の善良が既に現れはじめているのが見えるでしょう。 ヨセフの話は私達と無関係ではありません。私達にとって傷つき、痛み、真の危害は他人事ではありません。教会内や外部での共同体において、私達は自ら体験し、私達、家族、友人や人々が受けた多くの傷を見てきました。しかし神の優しさと信頼を通して、私達は心を養った者として傷をつけた者に対して「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と言えるのです。 このことは、ひどい苦しみが起こったことを認めないと言うことではありません。私達は明確に危害はあったといい、突きつけることができます。悪事はなされたと。しかし私達はそれを超えた神の御意志、計らいを見ることができるのです。またどのように御意志が明らかになるのか、今この瞬間、今日見ることができます、私たちが神に対し目を見上げれば。 私の祈りは、私達が為された悪に対し、真正面に向きあい、それに伴う全ての困難に向かっていくができる本物の共同体になる事です。落胆したり、隠したり、諦めたりするのではなく、試行錯誤の混乱の中で心と心を相互に作用させて育て、神の方向性を一緒に求めながら、例え傷つき、悪の最中にあったとしても、私達全ての者が目を上げて神の良い御意志と計らいを見つめる共同体を形作る者となることができますように。 主と救い主の御名において、祈ります。 アーメン
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