ガラテヤ人への手紙 5:22-23 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」 マルコの福音書 3:1-6 主イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々は主イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。主イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、主イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにして主イエスを殺そうかと相談し始めた。 今日は「善意」について話します。ご存知のように、日本語の言葉の概念は、英語やフランス語、ドイツ語などにうまく翻訳されないことがあります。私はしばしば、「もったいない」という言葉を説明するのが難しいと感じています。簡単に言えば、それは「無駄にするな」という意味です。しかし、「もったいない」は、もっと、つまり何か消失することで生じる人の気持ちや感覚を表しているのです。今日は、ヘブライ語の“Tov”で「良い」または「善意」という言葉に焦点を当てます。「良い・善意」という言葉、聖書で「良い」という言葉を読むとき、翻訳がうまくはまらないことがあります。なぜなら、それはそこそこ普通より良くて、それは偉大だと同じくらいの意味を持ち合わせるからです。私達は、「あなたの誠実さは普通だOkay is your Faithfulness」とか、「あなたの誠実は良いものだGood is your Faithfulness」とは歌いませんよね。そうではなく「あなたの誠実さは偉大で素晴らしいです。」です。ヘブル語的にも、文化的にも、神様との関係性においてに「良い」は適切な翻訳ではありません。なぜなら、単に「Tov」という言葉やギリシャ語の「Agathosune」という言葉を「良い」や「善意」と訳すだけでは、マタイ19章で主イエスが裕福な若者に「良き先生」と呼ばれたとき、なぜ主イエスが怒ったのかが理解できないからです。それでは意味が通じません。それは先生に対する礼儀正しい呼び方のように思えます。私を良い説教者や牧師と呼んでくれるなら、それは褒め言葉として受け取ります。しかし、主イエスやその周りの人々は、その言葉「良い」が「まあまあ普通」と「偉大」以上を意味することを知っています。それは聖なること、完全で欠点のないこと、または完璧なことを意味します。主イエスは、使徒達にすぐれた指導者として、適した言葉を身につけさせる意図がありました。主イエスは聖なるお方なのだから、主イエスを「良き先生」と呼ぶのは適切であると言うかもしれません。主イエスが主であり、救い主であることが私達に分からないのなら、「良き先生Tov Rabbi」と呼ぶことは不適切なのです。主イエスがあなたにとって主であり救い主でなければ、「キリスト」と呼ぶべきではありません。キリストは主イエスの姓ではなく、主イエスが誰であるか、どのように見られているかを認知する言葉です。それは単なる言葉ですが、主イエスは言葉にこだわり、言葉を重視しているのです。 創世記1章では、すべての創造が展開します。三位一体である神様による驚くべき啓示なのです(創世記1:26)。「われわれの似姿に人を造ろう」。すべてが創造された後、神様はそれを「良い」と呼びます。またはそれは完全で完璧です。生物学的に不思議な自己維持型の創造であり、神様はその創造を評価し、それが完璧であることをご存じです。興味深いことに、最初の人間アダムは完全な環境下に置かれ、罪を犯し、園から追放されました。 私達の主イエス・キリスト、第二のアダムは、堕落した世界に置かれ、世界を贖いました。心理学者(私の父もそうです)は、自然と育成の議論をします。両方が重要です。環境は重要ですが、私達は環境でだけで定義されるわけではありません。私達は神様からの助けと、神様に自分を明け渡して従い、聖霊の導きによって、その環境を克服することができます。神様は世界を生命維持に適した状態を整え、それを豊かに維持できるように造りました。私は駄目な説教をするかもしれません。私は平凡な日を送るかもしれません。他の人とのコミュニケーションがうまくいかないかもしれませんが、神様はゴミを造りません。神様はがらくたを造りません。 神様は世界を造り、それを良いと呼び、私達にただその被造物を大切にするように求めただけです。正直に言って、大切に被造物の世話をするという私達の任務はかなりひどい状況になっています。神様は完璧にバランスの取れた生命体を造りました。その生命体は太陽の周りを移動し、ちょうど適切な距離に位置し、完璧な傾斜を持って生命を維持しています。神様は私達を自分の似姿に造り、私達を良いと宣言しました。私の人生で、体の問題を抱えている人々に何人か出会いました。彼らは鏡を見て、神様の子であるのに(彼らはそうです)、自分を出来損ないと見ています。私自身5年前にその問題に直面しました。健康的な生活にはあまりにも体重が増えました。私は太ってしまい、アスレチックなことをするのをやめてしまいました。毎日の終わりには疲れ果てているのです。しかし、それが最も鮮明に現れたのは、私が写っている写真を見たときでした。自分の写真が嫌いでした。特に、私が楽しい時間を過ごしている写真を見ると、その写真を見て、家族や友人との良い経験を思い出す代わりに、この太った男を見て、恥ずかしく感じました。これは私の友人Jess Engleの写真で、彼の娘がたまにKUCに来ています。そんな時、私は神様に愛されていることを思い起こす必要がありました。 私が罪人であることを知っています。あなたもそうです。しかし、神様は私達を非常に愛してくださるので、その独り子である御子を送ってくださいました。私が130kgをはるかに超えていても、神様はがらくたを造っていません。 時には、私達は個人的、あるいは社会的な居場所や、気持ち、また霊的に達成したい場に身を置くために人生を変える行動をしなければなりません。そこに積極的に乗り出してくなら、我々の神様は私達に出会ってくださるのです。神様は私達が住むための完璧にバランスの取れた世界を造りました。私達はこの良い世界を台無しにしてしまったので、たくさんの悔い改めが必要です。詩編103は神様の良さを示しています。「主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。」今日、回復ではなく処罰に重点を置くグループがいます。もしあなたが間違いを犯したなら、もし先祖が間違いを犯したなら、彼らはあなたを告発し、沈黙させ、または亡き者にしようとします。それは罰であり、贖いや赦しの機会もありません。それは残酷なことです。 パウロがヘブル人への手紙 12:10-11で言います。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」 神様は喜んで私達を鍛えて正してくださるのです、そのような神様を礼拝できることに感謝します。神様が私達を鍛えるのは、私達の益、良いためにです。その目的は、鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるためなのです。しつけと言いながら罰を与える人々には本当に気をつけてください。鍛錬の目的は常に善であり、罰ではありません。問題は神様の善にあるのではなく、(神様が私達をしつける場合でも)私達がその善を受け入れる意思があるかどうかです。 主イエスがダマスコへの道でサウロに出会ったとき、主イエスは言いました。『サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけるのは、あなたには痛い。』 主イエスは、彼の羊を傷つける人々を神様への個人的な冒涜として見ています。「なぜわたしを迫害するのか。」主イエスは、神様を傷つけるよりもそれがあなたとあなた自身の心を傷つけていることをご存じです。とげの付いた棒とは、畑仕事をする牛やロバが主人の指示に従うように訓練するための棒のことです。これは動物を守るためであると同時に、動物の役に立ちます。動物が反抗して蹴りを入れると棒にぶつかり、その痛みのために素早くにそのようなことをしないように学習するのです。 医者の所に言ったある人のことを聞いたでしょう。その人は医者に「手を伸ばして背中に回して、できるだけ手を下げると、首に痛みが走るんです。どうしたらいいのでしょう。」 医者はしばし考えて言いました。「それじゃ、それをしなければいいんじゃないですか。」 あなたにとってのとげの付いた棒は何か分かっているでしょう。その棒を蹴り上げるのを止めましょう。動物でさえ賢く学習するのに、私達人間は時に愚かでいつかうまくいくんじゃないかと、馬鹿げたことを何度も繰り返すことがあります。それは止めましょう。神様の善意を拒絶するということは、私達がとげの付いた棒を蹴っていることにほかなりません。神様を傷つけているのではなく、自らの痛みと失望を引き起こしているだけです。 詩編34:9「味わい、見つめよ、主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」申命記30:15に似た記述があり、モーセは人々に助言します。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」 神戸ビーフステーキとマクドナルドのハッピーミール、どちらにするという簡単な選択のようです。神様の善を選ぶことは、「命と幸いを選びなさい」と言うことです。しかし、死は簡単です。あなたはまったく努力しなくても、そのまま長い坂道を滑り降り、底に落ちるだけです。生活は難しいです。そして良いことを選び続けるには努力を要します。 私達、キリスト信者は、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神様、主を愛し、隣人を自分自身のように愛することは努力するに値すると言い続ける者だと思います。それは良いことです。神様の善を求める中で、神様は私達にその善を満たしてくださいます。それは美味しい味です。「味わい、見つめよ、主がいつくしみ深い方であることを。」 祈りましょう。 天のお父様、私達はあなたの善意の啓示に感謝します。私達に真の善意はあなただけから生じていることを分からせてください。私達の心を変え、あなたの善意を周りの世界に反映させる力を与えてください。主イエスの名において祈ります。 アーメン。
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